博古堂の歴史
仏師から鎌倉彫へ
 
釈迦出山像 後藤家は、寿福寺門前の扇ヶ谷仏所で代々仏師を家業としてきました。

検証し得る古文書としては、約450年前の1558年(永禄元年)に戦国大名北条氏第3代の北条氏康殿から仏師、後藤右近宛てに印判状が届けられています。

やがて、明治維新の混沌とした時代背景の下、、後藤斎宮(いつき1841〜1912)と長男の運久(うんきゅう27代1868〜1948)が「仏師後藤斎宮工場・鎌倉彫制作部」として造仏から次第に鎌倉彫へと力を入れていきました。
仏師へのこだわりや誇りをもちながら、当時の鎌倉彫に彫刻作品としての強い息吹きを吹き込んだのです。

そして斎宮(いつき)と長男の運久(うんきゅう)は、力を合わせて内国勧業博覧会や、1889年パリ万国博覧会をはじめとする各国の博覧会に積極的に出品、数多くの栄えある受賞を重ねました。
斎宮(いつき)と運久(うんきゅう)は、自らの彫刻表現たる鎌倉彫の作品群が、世界に通用する美術工芸であることに自信を深めます。

その誇りと自負は、当時、博古堂が一百年間保証券を製品に付したことからも感じられるのです。
釈迦出山像
(後藤斎宮作)
一百年間保証券 碁器蓮(後藤斎宮作)
手刳盆鳳凰(後藤斎宮作)
一百年間保証券 碁器蓮(斎宮作) 手刳盆鳳凰(斎宮作)
閻魔王座像(後藤運久作) 硯箱(後藤運久作) 卓(後藤運久作)
閻魔王座像(運久作) 硯箱(運久作) 卓(運久作)
  「乾口塗り」の考案と「後藤彫り」の確立
 
  運久(うんきゅう)はそれまでは朱塗りや紅花緑葉などが多かった塗り技法において、仏像の「古び」の仕上げにヒントを得て、現在の鎌倉彫の塗りとして知られる「乾口塗り(ひくちぬり)」を考案しました。
図柄も宝相華、牡丹、獅子、など伝統の仏教的テーマの他に、シルクロードを中心とする様々の動植物、風物、鬼や古瓦などを独自に考案し、デザインを大きく広げました。
現在の鎌倉彫各店に見られる、この「乾口塗り(ひくちぬり)」と各種文様の原型が博古堂から始まったのです。

更に、この時期に「後藤彫り」が確立されます。
「後藤彫り」は文様の輪郭の角を面取り抑えることにより、彫刻の角があたらないよう、工芸の実用性をもたせた彫り手法です。

こうした後、明治33年、現在の鶴岡八幡宮前に店を構え「博古堂」と号しました。
この頃の鎌倉は横須賀線の開通により文人、墨客の別荘地として賑わい、盆・茶托から箱物・座卓など盛んに作られたのです。
  戦後の復興から現在へ
 
  イメージ画像 運久を継ぐ先代、後藤俊太郎は、学徒出陣の後、昭和23年に東京美術学校彫刻科を卒業、戦争で壊滅状態にあった鎌倉彫の復興に全力を注ぎました。
昭和24年、俊太郎は、当時鎌倉在住の作家、文化人の支援を得て、「株式会社博古堂」を設立しました。

ざくろ、椿をモチーフにした立体彫刻を思わせる力強い彫りは、後藤俊太郎の代表的な作風です。
その後、鎌倉彫協同組合の発足、鎌倉彫教授会の結成、鎌倉彫会館の建設などに精力を注ぎ、鎌倉彫を全国に大きく広げる原動力の役割を果たしました。

後藤俊太郎が鎌倉彫の歴史・技法を体系的にまとめた著書である、「鎌倉彫」(主婦と生活社刊)は50版を重ねています。

俊太郎の長女・後藤圭子は、昭和52年東京芸術大学工芸科を卒業後工房に入り、主にデザインを担当、平成18年に俊太郎逝去に伴い当主として現在に至っております。
イメージ画像
飾額 椿
(後藤俊太郎作)
電気スタンド DRAPE
(後藤圭子作)
  本のご案内
 
  鎌倉彫
(ISBN4-391-11580-8 c0071)
鎌倉彫後藤家四代
鎌倉彫 後藤俊太郎著
主婦と生活社
2300円
鎌倉彫後藤家四代 後藤俊太郎・圭子編
かまくら春秋社
鎌倉彫 博古堂
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